「アンタ、宮田さんのなんなの?」 「え……」 「彼を狙ってるわけ?」 怖い顔をして、今度はギロリと睨みつけられた。 元々美人でかわいい顔をしているのに、これでは台無しだ。「言っとくけど、あたしは狙ってるからね。 なのにアンタみたいなドブスが現れて、邪魔されたんじゃたまらないわ!」 ハンナさんって……やっぱりそうだったんだ。 さっきの行きすぎのように思えたスキンシップも、宮田さんに好意があるからで……。 なんだか、謎が解けた気がした。「覚えときなさいよ。このあたしが言い寄ってオチない男なんていないの。上目遣いでにっこり微笑んで、手でもギュッと握ったら大概イチコロよ」 ……そうだと思う。 それには激しく納得してしまった。「アンタ、ブライダルドレスの仕事のためにうまく彼を釣ろうと思ってるの?」 「いえ、ち、違いますっ!」 「フン! 枕営業です、とは堂々と言えないものね」 さすがに今のは、カチンときた。 私がドブスと言われようが、着たいドレスが着れないからってひがまれようが、それには我慢できたけれど。 私が仕事の為に、宮田さんに色目を使ってるとでも? 女だということを最大の武器にした“枕営業”って、そういうことでしょ??「やめてください、枕営業だなんて! そういうつもりはありませんし、宮田さんだってそういう人ではありません!」 「ふぅーん。枕営業じゃないの? だったら、さっきのはなんなのよ。宮田さんがアンタの手にキスしてたじゃないの!」 「!……」 あれを見られていたんだ……。 ハンナさんが私たちに話しかけてくる前の、宮田さんの行動だったのに。「いい? 宮田さんが、あたしよりアンタを選ぶはずがないのよ! アンタ、ドブスなの。鏡を見たことある? よくそんな顔と体型でドレスなんて着ようと思ったわね」 信じられない! と顔を歪ませて吐き捨てるようにハンナさんがそう言った。「大体、アンタみたいなのに最上梨子のドレスはもったいないって、どうしてわからないわけ?」 「それは……わかってます」 「はっ! わかってるんだ。だったら二度と着ないでね、このドレスも!」 そう言われたかと思ったら、ハンナさんにドン!っと体当たりされてしまう。 その衝撃で料理が並べられているテーブルに倒れこむように手をつき、さらにバラ
目の前には私と共に落ちてきた料理のお皿が割れて、無残にそれがバラバラと床に広がっていた。 それがスープのような熱いものじゃなかった分、まだ幸いだったのかもしれない。 私の顔にも飛び散った料理の液体に、熱さは感じなかったから。 だけど自分が倒れこんでいるドレスの下には、その料理の残骸がびっしりと横たわっていて。 ドレスがぐちゃぐちゃに汚れてしまったのだと、否が応でもわかる。「緋雪!!」 静まり返った会場から、「大丈夫?」と心配する声があちこちから聞こえてくる中、一際大きく宮田さんが私を呼ぶ声が聞こえた。 だけど、すぐに顔を上げることはできなかった。 今、いったいなにが起こったのか……。 震えが止まらず、冷静でいられない自分がいる。 転んで大きな音を立ててしまったことが恥ずかしいとか、もうどうでも良かった。 そんなことより、私は大罪を犯してしまった。 ――― この綺麗なドレスに、シミ一つ作りたくなかったのに。「緋雪、大丈夫か?! すいません、タオル持ってきてください!」 私の上体を起こしながら、宮田さんがホテルのスタッフにそう声をかける。「ごめ……なさい…っ…」 上手く声が出せなくて、振り絞るように宮田さんに謝罪の言葉を口にした。 目は、合わせられなかった。 こんなことをしでかした手前、顔を見せられるわけがない。「朝日奈さん、大丈夫?」 今度は香西さんの声がした。 途端に、申し訳なさでいっぱいになる。 せっかくのパーティなのに、この騒ぎのせいで台無しだ。「緋雪、立てる?」 私の頭や体に付着した料理のソースを白いタオルで拭き取りながら、宮田さんが私をゆっくりと立ち上がらせた。 その瞬間、先ほどまで綺麗だったドレスのスカートが今はデミグラスソースのような茶色いものでびっしりと汚れているのが見て取れる。 その事実に、急激に悲しさがこみ上げた。「怪我はない?」 「……はい」 押されてよろめいて、転んだだけだ。怪我なんてするわけがない。「あ、でも、朝日奈さんの左腕……」 香西さんにそう言われ、宮田さんがすぐさま私の左手を掴んで腕を見る。「血が出てるじゃないか!」 本当だ。少し血が出ている。 足元を見ると、大きめのフォークが転がっていた。 きっと床に倒れたとき、これが腕に少々刺
「朝日奈さん、謝らないでよ。謝らなきゃいけないのは、こっちだ。本当にごめんね、せっかくパーティに来てくれたのに、怪我までさせてしまって」 そんなやさしい香西さんの言葉を聞いて、涙腺が緩まないわけがなかった。 じわりじわりと目に涙が溜まってくる。 ――― なんて器の大きい人なんだろう。「大丈夫、泣かないで? 君には宮田くんがついてるから安心して」 にっこりと笑う香西さんに、自然と頭を下げておじぎをしていた。 涙がポトリ、ポトリと床へ落ちる。「緋雪、行こう」 宮田さんにそっと腕を支えられ、ソースまみれの体で私はパーティ会場を後にした。 すぐさまエレベーターに乗り込んで、いくつか上の階の客室のフロアへと到着する。 香西さんが泊まるはずだった部屋は、バッチリと夜景まで見える豪華な部屋だった。「とにかくシャワー浴びて、その体の汚れを落とさなきゃね」 部屋に入っても、ボーっと突っ立っているだけの私の手を引いて、宮田さんが広いバスルームへと誘導する。 そこで私が見たものは、頭や顔にもソースが飛び散り、無残な姿が写る大きな鏡の中の自分だった。 いや、そんなことよりも ――― 茶色いソースがどろどろと付いたドレスの全容を見てしまうと、絶望で胸が張り裂けそうになった。 私がここに着て来なければ、このドレスは綺麗なままでいられたのに……。 そう思うと、涙がとめどなく溢れ出てきて止まらない。「ごめんなさいっ……私、とんでもないことを……」 「え……どうしたの」 鏡の前で号泣する私を見て、未だバスルームから出て行っていなかった宮田さんが心配そうに近寄ってくる。「だって……ドレスが……こんなに……」 「ドレスが汚れたの、気にしてたの? そんなこと別にいいのに」 これだけ汚れてしまっては、その汚れが全部取りきれるとは思えない。 きっともう、元通りには戻らないと直感した。 だからこんなにも悲しいし、その罪は重い。「気にしますよ!! だって、このドレスは……あなたが私の為に作ってくれたドレスで……だから、私にとってとても特別なドレスなんです! なのに……」 「僕にとっても特別なドレスだよ。大好きな人の為に作ったものだからね。だけどそのドレスよりも、もっと特別で大切なのは、緋雪……君自身だ」 私が泣き喚くように声を張って
シャワーを浴び終えたけれど、着替えの類は一切無い。 仕方がないので素肌に備え付けのバスローブをきっちりと羽織り、バスルームから出た。 ―― すごく無防備な格好だ。 上着を脱ぎ、アスコットタイを外してベッドの淵にちょこんと腰掛けていた宮田さんが、私に気づくとやさしく笑って手招きした。「さっきのインターフォン、香西さんがホテルのコンシェルジュに言って、これを届けてくれたみたい」 そう言って宮田さんが指し示したのは、消毒薬や絆創膏や包帯の類だった。 香西さんが私の怪我のことをそこまで心配してくれたのかと思うと、再び申し訳なくなってくる。「こっちに座って、怪我を見せて?」 すでに消毒薬を手に持つ宮田さんの隣に座り、素直に左腕をまくって差し出した。「大したことありませんよ」 「なに言ってんの。けっこう痛そうだよ」 しかめっ面をしながら私の傷をまじまじと見つめ、彼がそのまま唇を這わせる。 思ってもいなかったその行為に、私の心臓がドキっと跳ね上がった。「許せないな……緋雪にこんな傷をつけるなんて」 「……え?」 「わかってるよ。……ハンナでしょ」 突如ハンナさんの名前を出され、なんとなく視線を逸らした。 たしかにハンナさんのせいと言われればその通りだ。 彼女に体当たりされなければ、こんなことにはならなかったと思う。 あの当たり方は絶対……わざとだったと思うから。「ごめん。全部僕のせいだ」 「宮田さんの……せい?」 「飲み物を取りに行かされたのもわざとだったと思う。僕が途中で知り合いに話しかけられて、なかなか戻ってこれなかったからそれもまずかった。ハンナは僕があのドレスを着させないと言ったことが気に入らなかったんでしょ。プライドだけは高い人だからね」 そう話しながらも、私の腕の傷に消毒薬がかけられた。 深くもないし痛くもなかったのに、消毒薬の刺激で少し沁みる。「緋雪は八つ当たりをされたんだよ」 ……八つ当たり、ですか。「緋雪とハンナが一緒にいたのは香西さんも見ていただろうし、きっとみんなわかってるよ。ハンナが原因だって」 ハンナさんは華のある人だから、どこに居ても目立つ。 私や宮田さんと三人で話しているのを見られていたとしてもおかしくはない。「宮田さんが、ハンナさんは性格が悪いって言ってたこと……よく
「枕営業って! 緋雪はそんなことしていないし、真剣に口説いてるのは僕のほうなのに。逆にもっと緋雪には僕に対して色目を使ってほしいくらいだよ」 最後に言った、色目を使えって部分がおかしくて、思わず笑いそうになる。 こんな時になにを言っているんだ、この人は。 第一、色気もなにもない私が色目なんて使っても、なんの効果もない気がしますけど?「それに、僕に色目を使ってるのは、緋雪じゃなくてハンナのほうだろ」 「……え?!」 「あ、いや……その……」 今のは宮田さんにとって失言だったのか、あわてるような素振りで視線を逸らされた。 まずいことを言った、と顔に書いてあるような表情をしていてとてもわかりやすい。「気づいてたんですか、彼女の気持ちに」 私がそう言うと、チラリと視線だけを私のほうへ寄越す。「宮田さんを狙ってるって、私にも言ってましたから」 「……そうなんだ。でもあの子の場合はどこまで本気かわからないよ。最上梨子のドレスが着たいだけかもしれない。それに流す浮名も多い子だからね。相手は若手俳優とかイケメンモデルとか。ま、僕はまったく興味が無いから、そんなことはどうでもいいけど」 ハンナさんはあの容姿なのだから男性にモテないはずがない。 だけど宮田さんのレーダーには引っかからないみたいで、それが不思議だ。「私が宮田さんと一緒にパーティに来ていること自体にも、腹を立てていたのかもしれませんね」 「……え」 「最初から目障りだったんだと思います。自分のお気に入りの男性の傍をウロチョロする私の存在が」 「…………」 「それこそ、自分の容姿に自信のある彼女のプライドが許さないんじゃないですかね。私なんてライバルにも成りえないって思ってるでしょうし」 彼女と会話していると、常に見下された感が否めなかった。 無意識だったのかもしれないけれど、彼女の心の中にそういう気持ちがあるからこそ表にも出てくるのだろうと思う。 自分よりも容姿の劣るブスが、どうして彼のそばにいるのか、と。「勘違いも甚だしいよね」 「え?」 「たしかにライバルになんて成りえないよ。僕は最初から、ハンナのことは眼中にないんだから」 その色気を含んだ漆黒の瞳に、吸い込まれそうになった。「緋雪と出会ってから、ずっと緋雪に夢中だよ。……どうしよう」 至近距離でそ
「香西さんから、また届け物」 少し漏れ聞こえてくる会話から、訪ねて来た人はホテルのスタッフだろうと思ったけれど、やはりコンシェルジュだったみたいだ。「なにが届いたんですか?」 「着替えがないと困ると思って、用意してくれたみたい」 「着替え?」 「これ。下着みたいだけど」 真新しい袋に入った下着らしい代物の中身を覗こうとしている宮田さんの手から、それを素早く奪い取る。 男性のあなたが、それを確認しなくていいです。「さすが香西さん。ないと困るもんね」 にこにことそんなことを言われても、私の顔が赤くなるだけだ。「服も届いてるよ。着て帰るものがなかったら、って考えてくれたんだろうね」 たしかに着てきたドレスがあんな状態では……代わりに身に付けるものがなかった。 デザイン事務所の衣裳部屋には、私が家から着てきたスーツがあるから誰かにそれを届けてもらうのが最善かもしれないけれど。 あの部屋の鍵は宮田さんが持っていて、容易く誰でも入れる部屋ではない。 だからと言って、宮田さんに取りに行ってもらうには申し訳がなさすぎる。 でも違う服で……と言っても、この部屋に居たままで調達する術がわからない。 どうしようかと、実はそれを先ほどから悩んでいたところだった。「申し訳ないですね。こんなに気をつかってもらって」 「いいんじゃない? 僕と香西さんは仲がいいし。ちゃんと僕からお礼を言っておくから」 「すみません」 香西さんが届けてくれたのは、ホテルで着ていてもおかしくないような上品なスカートとインナーとジャケットだった。「お、これ香西さんのデザインだ」 宮田さんがうれしそうにそう言って、私の顔の前にジャケットを当ててみる。「あー、でも。僕のデザインほうがもっと緋雪に似合うよ」 そんなことを言うなんて。 彼も実は意外と負けず嫌いの自信家みたい。「それとあのドレス、今ホテルのクリーニングに一応出しといたから」 「ありがとう……ございます」 私が洗うより、プロの人に任せれば汚れはかなり落ちそうだ。 できるだけ元に戻りますように、と心から願った。「緋雪は明日、仕事があるの?」 「いえ、有給を取りました」 慣れないパーティに行ったら絶対に疲れ果てると予想して、私は事前に翌日の有給申請をしておいた。……かなり正解だと思う。「
「緋雪がシンデレラなら、ドレスを用意した僕は魔法使いってことになるじゃん。……王子は香西さん?」 「……あ、そうなりますね」 「嫌だよ! 僕は王子がいい!」 真剣な表情でそう主張する宮田さんを見てケラケラと笑ってしまった。 こういうところは子どもっぽくてかわいい。「緋雪はさ、〇時を過ぎても魔法は解けないよ」 「え……?」 「解けない魔法がかかってるから。今夜はずっと王子がそばにいてあげる」 パーティのときのように、彼はまた私の左手を取って手の甲に口付けた。 彼の唇の感触がとてもリアルで色っぽくて……恥ずかしさで一瞬のうちに頬が熱くなる。「緋雪……」 彼の長い腕が伸びてきて、すっぽりと包み込むように抱きしめられた。 今の傷ついた私の心を、この温かさが癒してくれるみたいな気持ちになる。「そう言えば……呼び名、変わってますね」 「……ん?」 「“緋雪”って」 パーティのあのアクシデントの辺りから、宮田さんは私を“緋雪”と下の名前で呼ぶようになっていた。「あぁ、うん。ずっとそう呼びたかったんだ。……もしかして嫌?」 私の身体を少し離し、その表情を読み取ろうと視線を合わせてくる。 いつもにこにこしている彼の顔が、今はとても不安そう。「……嫌じゃない」 私がそう答えると、彼の顔が照れを含んだうれしそうな顔に変わっていく。 そして、彼の色気のあるやわらかい唇が私の唇をそっと塞いだ。 一瞬で深くなったキスが何度か角度を変えたとき、私はふと俯いてクスリと笑った。 ……思い出し笑いだ。「どうしたの?」 急に笑い出した私に、彼は不思議そうな視線を送る。「また邪魔されるのかなと思ったら、おかしくて……」 キスをしている最中に、コンシェルジュが二度も来たことを思い出したのだ。 香西さんからの私への気遣いだったのに、それは今思えばまるで計ったようなタイミングだった。「もう邪魔はさせないよ」 「でも……」 「誰が来ても出ない。もう止まらないから」 そう言ったかと思うと彼は再びキスを落とし、私をベッドへと押し倒す。 私の上に覆いかぶさる彼を見て、心ごと全部持っていかれたと自覚した。「宮田さんって……意外と肉食だったんですね」 「そうだよ。マチコさんにも言ったでしょ。パーティが終わったらいっぱいイチャつくって
***「緋雪、今晩ちょっと付き合ってよ。相談があるの」 お昼休みが終わろうとする時間に、外から戻ってきた麗子さんが私にそう耳うちしてきた。 この日、特に予定がなかった私は「わかりました」と返事をし、残業にならないように業務をこなす。 麗子さんの相談って、なんなのだろうか? というか、私のほうがいろいろと悩みを抱えているように思うけど。 私の場合、内容は……もちろんあの人のことだ。 ――― 宮田 昴樹 気がつけば、醜態をさらした例のパーティから今日で四日が経っていた。 香西さんに借りた服は、家に帰ってから当然のごとく近所のクリーニング屋店に出して、今日仕上がってくる予定。 その服も、もちろん返さなくてはいけない。 だけど、私は香西さんの連絡先を知らないのだ。 調べれば、香西さんの事務所の電話番号くらいはわかると思うけれど。 彼になにも告げずに行動を起こすのは……さすがに非常識な気がする。 とは言っても。あの日、ホテルの一室でふたりで朝を迎えたわけで……。 一線を越えた男女の仲になったのだと思ったら、連絡しようにも気恥ずかしさが先に立って、そのまま日が過ぎてしまっている。 彼からは二度ほど心配そうなメールが来ていたけれど、それには無難に返事を返すだけにしておいた。 もちろん、いろんな意味でこのままでいいわけがないし、少し気合を入れつつ、なにもなかったように電話でもすればいいだけの話なのだけれど、なかなかそれができない。「とりあえず、ビールでいいよねー?」 麗子さんと仕事帰りに何度か来たことのある会社近くの居酒屋を訪れた。 今日もふたりでテーブル席へ着くと、麗子さんはメニューも見ずに店員に生ビールをふたつ注文した。 あっという間にやってきたビールのジョッキを傾けて、カンパーイ!とグラスを合わせ、適当に料理を頼む。「緋雪さぁ、やっぱり男ができたんじゃない?!」 仕事終わりのビールって、やっぱり美味しいな……などと呑気なことを思いながらジョッキの中身を身体に流し入れているときに、突然そんなことを言われたものだから、ゲホゲホとむせ返してしまった。 ブーっと漫画みたいに噴出さなかっただけマシだ。「麗子さん! 急に変なこと言うからむせたじゃないですか!」 抗議の意味を込めて、ムッと口を尖らせる。「
「いえ。最上梨子が描きました」 「……だからそれは、あなたでは?」 ……どうして部長がそれを知ってるのだろう。 私の強張った顔からは嫌な汗が噴出し、これ以上ないくらいに激しい動悸がした。「ぶ、部長! なにを仰っているのかわからないです」 「朝日奈、お前は黙ってろ。俺は今、宮田さんに尋ねているんだ」 ここで部長にバレたらどうなるの? せっかくこんなに素敵なデザインを描いてもらえたというのに、すべて白紙に戻るかもしれない。 宮田さんは最初に言ったから。 秘密がバレたら、仕事は反故にする、と。 実際に、このデザインがドレスになることはないの? 幻で終わる? それも嫌だけれど、そんなことよりも。 部長がこの事実をほかの誰かに漏らしてしまったら……彼が最上梨子だったと世間にバレてしまいかねない。 それは絶対に嫌だ。 だって彼がずっと守り通してきた秘密なのだから バレるなんてダメ! 絶対にダメ!!「宮田さんは最上さんのマネージャーさんですよ! な、なにを変なこと言い出してるんですか、部長!」 「……朝日奈」 「私、黙りませんよ! おかしなことを言ってるのは部長ですから! 違いますよ、絶対に違います! マ、マネージャーさんが……そんな、デザインなんて描けるわけもないですし……」 「朝日奈さん、もういいです」 そう言った宮田さんを見ると、困ったような顔で笑っていた。「袴田さんには最初からバレる気がなんとなくしていました」 「朝日奈が必死に否定したのが、逆に肯定的で決定打でしたけどね」 「はは。そうですね」 そのふたりの会話で気が遠のきそうになった。 私があわてて否定すればするほど、逆に怪しかっただなんて。「で、いつから気づいてました?」 「変だなと思ったのは、あなたがここに視察に来たときです」 部長の言葉に、やはりという表情で宮田さんが穏やかに笑う。「普通、物を造る人間は大抵自分の目で見て確認したいものです。特にデザイナーなんていう、なにもない“無”のところから発想を生み出す人間は。……私もそうでしたからわかります」 「そうですね」 「だけどあなたは最上さんの代理だと言ってやって来た。いくら彼女がメディアには出ないと言っても、それはさすがに不自然でしたから」 「なるほど」 私にはそんなこと、ひ
エレベーターで企画部のフロアに到着すると、先に宮田さんを会議室へと通して袴田部長を呼びに行く。 私がコーヒーを三つお盆に乗せて部屋に入ると、ふたりが立ってお決まりの挨拶をしているところだった。「わざわざご足労いただいて恐縮です」 「いえいえ。こちらこそ最上本人じゃなく私が代理で訪れる非礼をお許しください」 「早速ですが、デザインが出来たとかで……?」 「はい」 袴田部長もどんなデザインなのか気になっているのだろう。 ワクワクしているような笑顔を私たちに見せる。「朝日奈、お前はもう見たんだろう?」 「はい。部長も今からド肝を抜かれますよ」 「お前……客人の前で“ド肝”って……」 「あ、すみません」 いけない、いけない。 普段の口調からなにかボロが出ることもあるんだから、この際私は極力黙っていよう。「では袴田さんもご覧いだだけますか」 先ほどと同じように、宮田さんが書類ケースからデザイン画の描かれたケント紙を取り出して部長の前に差し出す。 それを一目見た部長は、一瞬で目を丸くして驚いた様子だった。「これは……すごい」 ドレスの形はマーメイド。 色はエメラルドグリーンを基調に、下にさがるほど濃くなるグラデーションになっている。 肩の部分はノースリーブで、胸のところで生地の切り返しがあってセクシーさを強調している。 そして、なんと言っても素晴らしいのはスカート部分だ。 元々、曲線美を得意とする最上梨子らしく、長い裾のスカートのデザインは、まるで波のような動きを表していた。「この部分は?」 部長が指をさしたのは、肩から羽織る白のオーガンジーの部分だった。「海のイメージだったので、最上は人魚を連想したようで。それで形もマーメイドにしたようなのですが、上半身が少し寂しい気がしてそれを付け足したそうです。必要ないなら省くように言いましょうか?」 「いえ。これはまるで“羽衣”みたいだと思ったもので。私もあったほうがいいと思います。しかしドレスの色も、いいですねぇ」 「朝日奈さんに聞けば、披露宴会場の中は深いブルーにするおつもりだと。そこで最上は明るいエメラルドグリーンのドレスが映えると思いついたみたいです」 さすがですね、とデザインをベタ褒めする部長を見ていると私もうれしくて頬が緩んだ。 自分で絶好調だと
*** 約束していた翌日。 私は朝一番で袴田部長のデスクへ行き、ブライダルドレスのデザインが出来たことを報告した。 最上梨子の代理として宮田さんがデザイン画を持ってくる件も話し、部長のスケジュールを確認する。「それにしても、突然出来るもんかなぁ」 「え?」 「いやだって、全然進んでないみたいなこと言ってただろ?」 そうやって、少し不思議そうにする部長に、私は満面の笑みでこう口にした。「最上梨子は天才なんですよ」 宮田さんに伝えた時間は十四時。 その少し前に私は一階に降りて宮田さんの到着を待った。 しばらくすると、黒のスーツに身を包んだ宮田さんが現れて私に合図を送る。「お疲れ様。昨日のアレで足腰痛くない?」 「え!!……ここでそういう話は……」 「あはは。緋雪、動揺してる」 ムッと口を尖らせると、彼は逆にニヤっと意味深な笑みを浮かべた。「その顔やめてよ。尖らせた唇にキスしたくなる」 そう言われて私は一瞬で唇を引っ込めた。「あちらのテーブルへどうぞ。言っときますけど今日は“仕事”ですからね、宮田さん!」 「はいはい」 ガツンと言ってやったつもりなのに、この人には全然効いてない。 ……ま、それは以前から変わっていないな。「これなんだけど……」 移動するとすぐに宮田さんは書類ケースから一枚のケント紙を取り出して私に見せた。 テーブルの上に並べられたそれを見て、私は一瞬で驚愕する。「な……なんですか、これは……」 ケント紙に綺麗に濃淡をつけて色づけされたデザイン画。 生地の素材や装飾の内容など、詳しいことは鉛筆で書き込まれている。 それらを見て、私は息が止まりそうになった。「あれ……ダメだった?」 おかしいな、などと口にしながら隣でおどける彼を、 この時 ――――本当に天才だと思った。「マーメイド……。こんなすごいドレスのデザイン、私は初めて見ました。最上梨子は……計り知れない天才ですね」 「……そう? 緋雪に褒められると嬉しいな」 「感動して泣きそうです。行きましょう! 部長に見せに」 テンション高くそう言うと、宮田さんがにっこりと余裕の笑みを浮かべた。
しばらく意識を手放していた私がぼんやりと目を開けると、そこには逞しい胸板があった。 私を腕枕していた手が肩を掴んで、ギュッと身体ごと抱き寄せる。「起きた?」 声のするほうを何気なく見上げると、やさしい眼差しが向けられていた。 目が合うと先ほどまでの情事を思い出して、途端に恥ずかしさがこみ上げてくる。「緋雪は恥ずかしがり屋さんなんだね」 そう言ってこめかみにキスを落とす彼は、余裕綽々だ。「あ、そうだ。頼まれてたデザイン、出来たんだけど」 「デザインって……」 「もちろんブライダルドレス。海のやつね」 「え?!」 以前に彼が自分で採点をしてボツにしたデザインじゃなくて……。 まったく新しいものを描き直してくれたのだと思うけれど。「出来たって……納得できるものが描けたってことですか?」 「うん。けっこう自信あるよ。自分の中じゃ手直しは要らないと思うくらい」 「え~、すごい!」 食いつくように目を輝かせる私を見て、彼がクスリと笑った。「最近、仕事が絶好調なんだよね。急になにか降臨してくるみたいに、ポーンとデザインが頭の中に浮かぶんだ」 「そういうのを、天才って言うんですよ」 「そうかな? 緋雪と結ばれた次の日から急にそうなったんだけど」 香西さんが、最近の彼のデザインを見てパワーアップしてると言っていたし、素晴らしい才能だと絶賛していたことを思い出す。 やっぱりこの人は、天才なんだ。「出来たデザイン、見せてください」 「ごめん、今ここにはないんだ。事務所にあるから」 「じゃあ、明日事務所に行くので……」 「僕が緋雪の会社に持って行くよ」 「え?」 明日の予定を思い出しながら、何時に事務所を訪問しようかと思考をめぐらせていると、宮田さんから意外な言葉が発せられた。 私がデザイン事務所を訪れることが、普通になっていたのに、どういう風の吹き回しだろう。「うちの会社に、来るんですか?!」 「うん。どのみち出来上がったデザインは袴田さんに見せることになるよね? だったら僕が行ったほうが早いから」 「それはそうですけど……」 「あ、緋雪は一番に見たい?」 その質問には素直にコクリと頷く。 自分が担当だということもあるから余計に、誰よりも早くそれを見たい気持ちがあるのはたしかだ。「じゃあ、袴田さんに会う前
急激に自分の顔が赤らむのがわかった。 彼の言うことはもっともだと思うのだけれど、いざとなると恥ずかしさが先に立つ。「じゃあ……プライベートではそう呼ぶようにします」 「今、呼んで」 「え?!……こっ……こうき」 舌を噛みそうなほどガチガチに緊張しながら彼の名を呼ぶと、クスリと笑われた。「緋雪は本当にかわいい」 「もう!」 「ちゃんとベッドでもそう呼んでね」 からかわないでと言おうとしたところに、逆に彼のそんな言葉を聞いて更に顔が熱くなった。「顔、赤いけど?」 「そりゃ、赤くもなりますよ」 いつの間にか至近距離に彼の顔があって…。 そのなんとも言えない色気に、一瞬で飲み込まれてしまった。「その顔……ヤバい。すごく色っぽい」 「え? ……逆だと思いますけど」 「は? 僕? なにかフェロモンが出てるのかな? 今、めちゃくちゃ欲情してるから」 耳元で囁かれると、電流が走ったように脳に響いた。 彼のくれるキスは、最初は優しくて甘い。だけどそのうち深く、激しくなって……。 舌を絡め取られるうちに、なにも考えられなくなっていく。 手を引かれ、寝室の扉を開けると、彼が私の後頭部を支えるように深いキスが再開された。「緋雪は僕を誘惑するのが本当に上手だね」 ベッドになだれ込んで、覆いかぶさる彼を見上げると、異様なほどの妖艶な光を放っている。「ど、どっちが……ですか」 誘惑されているのは、私のほう。 欲情させられているのも、私のほう。 あなたは自分の持つ色気にただ気づいていないだけ。 ――― 色気があるのは、あなたのほう。 あなたの長い指が、私の髪を梳く。 あなたの大きな掌が、私の胸を包む。 あなたの柔らかい舌が、私の目尻の涙を掬う。「ほら、呼んで? 名前」 ふたりの吐息が交じり合う中、律動をやめずに彼が言う。「……い、今?」 「さっき約束したじゃん」 パーティの夜にも同じことをしたけれど…… 今日の彼はあの時より余裕があって少し意地悪だ。 私には余裕なんて、微塵も無いのに。「早く呼んでよ。じゃないと、僕も限界が来そう」 ほら、と急かされるけれど。 私もやってくる波に煽られて、身体が自然とのけぞってくる。「こう……き。……昴樹……好き」 私の声を聞いて、一瞬止まった彼の律動が
「今日、岳になにをされた?」 感触を確かめながら、私の右手をそっと握る彼の瞳に嫉妬の色が伺える。「全部は見てなかったから。抱きしめられた?」 「いえ、それはないです!」 「だけど、頬にキスはされたよね?」 ……それは、見てたんだ。 というか、二階堂さんも見られているタイミングでわざとやったんだろうけど。「ほかの男でも腹が立つのに、相手が相手だ。緋雪が昔一目惚れした岳だよ?! 僕があれを見て、どれだけ気が気じゃなかったかわかる?」 だから……一目惚れじゃなくて、憧れなのに。「だったらなぜ、私に八年前のことを言わせたんですか?」 私にとっては、もう昔のことで。 ただの憧れだったし、今は綺麗な思い出だ。 だから、八年前のことを二階堂さんに告げてもあまり意味はなかったのに。「緋雪が今も岳のことが心に引っかかってて……要するに好きなんだったら、後悔のないように告白させてあげたかった」 「それで、私と二階堂さんがくっ付いちゃったらどうするつもりだったんです?」 「そしたら……岳から奪う」 彼が、諦める、と言わなかったことがうれしくて。 私の右手を握る彼の手の上に、自分の左手を重ねる。「私は二階堂さんじゃなくて、あなたが好きです」 「緋雪………初めて好きって言ってくれたね」 もっと早く、言うべきだった。 どこまでが冗談なのかわからない彼は、本当は異才を放つ最上梨子なのだ そう思うと、何の取り柄も無い女である私が傍にいるのはためらわれていた。 彼が仕事で関わるモデルの女性はみんな綺麗だから、私より絶対魅力的に決まっている……なんて、歪んだ感情も芽生えたりしていた。 好きだと態度で示されても、気まぐれにからかわれているだけだと思っていた。 いや……思おうとしていたんだ。 彼のデザインを見るたび、彼の作ったドレスに触れるたび、心をギュッと鷲づかみにされてその才能の蜜に吸い寄せられていた。 そんな人に好きだと言われ、態度で示されたら……。 しかもキスなんてされたら……最初から、ひとたまりもなかったのに。「僕も、好きだよ」 彼が心底うれしそうな顔をして、私の右の頬を撫でた。 そしてそこへ、ふわりと口付ける。 今日、二階堂さんがキスした場所と同じところだ。「上書き完了」 そう呟いた彼の顔が妖艶すぎ
「宮田さんにとって、私ってなんですか?」 「え?」 「どういうポジションにいます?」 泣いても喚いても、執拗に詮索しても。 あなたにとって私がなんでもない存在ならば…… 嫉妬したって、それは滑稽でしかない。「一度抱いただけの、仕事絡みの女ですか?」 「違う!!」 弱々しい私の言葉を、彼の大きな声が否定する。「僕は恋人だと思ってるし、緋雪以外の女性に興味はない」 信じないの? と彼が切なそうな表情をする。「こんなに緋雪のことが好きで、思いきり態度にも出してると思うんだけど。僕は自分で言うのもなんだけど一途だし。なのにそこを疑われるなんて……」 不貞腐れたように口を尖らせる彼に、そっと唇を寄せる。 そう言ってくれたことが嬉しくて、気がつくと衝動的に自分からふわりとキスをしていた。 唇を離すと、驚いた顔の彼と目が合う。「良かった。本当に枕営業しちゃったのかと思いました」 「……は?」 それは、パーティの席でハンナさんに言われたことだ。 なぜか今、それを思い出して口にしてしまった。 自分でもどうしてわざわざそれを持ち出したのかと思うとおかしくて、笑いがこみ上げてくる。「あのパーティの夜、宮田さんは……午前〇時を過ぎても魔法は解けないって言ってくれましたけど。朝になったら解けちゃったのかなと……なんとなく思っていたんです」 「どうして? 僕は解けない恋の魔法を緋雪にかけたつもりなんだけどな。あ、いや、ちょっと待って。それじゃやっぱり、僕は魔法使いってことになるじゃん!」 真剣な顔をしてそう抗議する彼に、噴き出して笑う。「不安だったのは、僕のほうだよ」 「……?」 「あの夜は気持ちが通じたと思ったし、心も身体も愛し合えたと思った。だけど、もしも無かったことにされたら……って考えたら、不安だった」 「……そんな」 「僕はやっぱり魔法使いで、王子は岳なのかも…って」 ――― 知らなかった。 宮田さんがこんなふうに思っていたなんて。 二階堂さんと私のことを、こんなにも気にしていたなんて。「宮田さんは王子様兼魔法使いなんですよ」 「……何その“兼”って、一人二役的な感じは」 「それとも私たちは、シンデレラとはストーリーが違うのかも。ていうか、一人二役でなにか問題あります?」 「……ないけど」 気まぐ
手を引かれ、十二階に位置する彼の居住空間へと初めて足を踏み入れる。「お、お邪魔します。お家、ずいぶん広いですね」 おずおずと上がりこんだ部屋には大きめのリビングとダイニングキッチンがあり、話を聞くとどうやら2LDKの間取りのようだ。 まるでモデルルームのように家具やカーテンの色や風合いがマッチしていてパーフェクトな空間だった。 この前麗子さんと話していて、宮田さんはどんなところに住んでいるんだろうと、気になってはいたけれど。 それがこんなに広くてスタイリッシュな空間だったとは思いもしなかった。「ここのマンションの住人には、ルームシェアしてる人もいるみたい。僕はもちろんひとりだけど」 なるほど。ルームシェアもこの広さなら出来ると思う。 なのに贅沢にこの部屋で一人暮らしだなんて……。「緋雪、気に入ったならここに越して来る?」 「え?! 私とルームシェアですか?」 「なにをバカなこと言ってんの! 僕たちが一緒に住む場合は、“同棲”になるだろ」 肩を揺らしてケラケラと笑う彼を見て、拍子抜けしたと同時に私の緊張もほぐれた。 私がはっきりと返事をしないまま、その提案が立ち消えになったことにもホッとする。「いつも事務所じゃコーヒーだけど、今日はビールがいい?」 ソファーに座る私に、彼はそう言ってキッチンからグラスと冷えた缶ビールを持ってきた。「ありがとうございます」 「パーティのとき思ったけど、緋雪はお酒飲めるよね?」 「あ、はい。それなりには」 コツンとお互いにグラスを合わせ、注がれたビールを口に含む。 ゴクゴクと美味しそうにビールを飲み込む彼の喉仏が、やけに色っぽい。 隣に居ながらそれを見てしまうと、自動的に心拍数が上がった。「今日のことだけど。僕が、モデルの子と一緒にいた件……」 ふと会話が止まったところでその話題を口にされ、私から少し笑みが引っ込んだ。「あの子はハンナの後輩なんだけど、けっこう気の強い子でね。ハンナのこともライバル心からかすごく嫌っていて。僕は今日、巻き込まれたっていうか……あの子が、」 「もういいです」 「……え?」 「もう、それ以上聞かないでおきます」 ハンナさんへの当て付けなのか、本気なのかはわからないけれど、あの女性が宮田さんに迫ったんだろうとなんとなく直感した。「言わせて
*** 会社に戻る途中、ずっとモヤモヤした気持ちが抜けなかった。 なんだこれ。こんなんじゃ仕事にならない、とエレベーターの中でそんな自分に気づき、両頬をパンパンっと叩いて喝を入れる。 そうやって気合を入れたのに集中力は続かず、終わったときには時計は十九時半を回っていた。 そうだ、電話しなきゃ……。 ロッカールームで思い出し、宮田さんの番号を表示させて発信する。 今日のことを弁解させてほしいと言っていた彼の困惑した顔が脳裏に浮かんだ。 私だって…… あのモデルの女性と、あんなところでなにをしていたの?と、気にならなくはないけれど。 正直に聞くのが怖い。『もしもし』 数回目のコールで、落ち着いたトーンの彼の声が耳に届いた。「お疲れ様です。今、仕事が終わりました」 『お疲れ様。もう会社の前にいるから降りてきてよ』 「え……はい」 そのまま通話を切り、私はあわててロッカールームを後にした。 遅く感じるエレベーターに乗り込み、会社の外に飛び出すと、一台の車がハザードをつけて停まっていることに気づく。 助手席側のドアを背にして立つ宮田さんの姿があった。 ポケットに手を入れて佇む姿が、車を背景にしているせいか、とても様になっている。 そんなことよりも。たしかに会社に迎えに来るとは言っていたけれど……「い、いったいいつから居たんですか?!」 「はは。息が切れてるね」 それは、エレベーターを降りたあとダッシュで走って来たからです。「私のことはいいんです!」 「えーっと……着いたのは1時間くらい前、かな」 「そんな時間からここに居たんですか?!」 「うん。終わったら電話くれる約束だったし。 だからここで待ってた。とりあえず車に乗って?」 そう言って、彼が背にしていた助手席のドアを開ける。 ずいぶんと待たせたのに、不機嫌じゃないんだ……。 などと思いながら、私は促されるまま助手席に乗り込むとドアを閉められた。 宮田さんはハンドルを握り、喧騒が未だ落ち着きを取り戻さない夜の街を走り抜ける。「あの……どこ行くんですか?」 なぜか運転中無言になっている彼の横顔を見つめつつ、静かに問う。「あー、そう言えばそうだ。どこに行こうか」 「え……」 そっか。そうだった。 この人はこういう人だ。中身は変人と